七間町とパフォーミングアーツ

 七間町は昭和から平成の始まりには東海地方随一の映画街として賑わいを見せていました。昭和30年代の最盛期には27館もの映画館がこの界隈にあったのです。その頃「七間町に行く」といえば、静岡市民なら”映画を観に行く”ということを示していたほどに七間町は映画の街として親しまれていました。ただ残念ながら現在は1館を残すのみとなっています。まだ記憶に新しいオリオン座、有楽座、ミラノ座、もう少し時代を遡れば国際劇場、キネマ館、歌舞伎座などが人気だったようです。さまざまな思い出が蘇ってくる、まさに青春の1ページ。生活の中に七間町がありました。

 こうした映画館がキラ星のごとく集まっていたのは、単なる偶然ではありません。七間町は1000年を超えて人々が集い賑わいをみせている街です。奈良時代には安倍の市と呼ばれた物資交流の中心地。江戸時代には東海道府中のメインストリートとして賑わいを見せていました。そして明治3年に完成した芝居小屋「玉川座」によって、七間町は新たに舞台芸術文化、エンターテイメントを人々に届けていくことになります。

 この玉川座のオーナーは新門辰五郎という江戸浅草の火消しの大親分。江戸から明治へと時代が急激に変化する中で、歴史の縁によって静岡に移り住むことになりました。滞在していたのは4年にも満たないのですが、彼の功績はのちの静岡の生活文化に深い影響を与えています。そのひとつがこの玉川座によって生まれたパフォーミングアーツ(舞台芸術)のムーブメントです。

 辰五郎は興行主としても実績は十分で、馴染みの江戸歌舞伎の名座を玉川座に度々呼び寄せては評判となっていきました。この成功により、七間町界隈に芝居小屋が集まり出すことになるのです。明治から大正期にかけては40や50もの芝居小屋が集積する大歓楽街として名を馳せることになりました。七間町映画街のルーツはこの芝居小屋の集積にあったのです。

 時代は流れて映画の街だった七間町は少し遠ざかってしまいました。150年にわたり舞台芸術、映画文化の歴史を積み重ねてきたこの地域も時代の波には逆らえないのかもしれません。しかし人通りは少なくなったといえど、こうして七間町があるのも先人たちが、幾多の困難を乗り越えてこの街を支えてきたからにほかなりません。昭和15年の「静岡大火」、昭和20年の「静岡大空襲」で2度の焦土を経験しながらもその度に立ち上がり復興を成し遂げたのです。その復興を支えたのは、ひとつには七間町の演芸や映画だったと伝えられています。人々に笑いと勇気を与え明日への希望に変えていったのです。ここ七間町にはそのように人々を楽しませるDNAが備わっているように感じます。それは長い時間を掛けて育んでいった七間町のレガシーといってもいいかもしれません。

 そうした土地の持つエネルギーに導かれてか、七間町には新たな表現者たちがこの界隈に拠点を構え活動を始めています。劇場機能を持った施設が増えています。明日のアートを考えるカフェに人々が集っています。地方と世界が繋がれる時代に各地からパフォーマーがやってくる機会が増えています。大衆演芸から活動写真、映画と連なる七間町150年の芸術文化はパフォーミングアーツという新しいステージを迎えているように見えます。
 七間町ハプニングは多くのパフォーマーと市民と共にこの創造的な身体芸術表現を通して、この街の過去・現在・未来をつないでいきます。

柚木康裕
七間町ハプニング5プロデューサー

静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター パフォーミングアーツ・コーティネーター